ねずみのお面

「好きな動物のお面を作ります。」
幼稚園の頃、そんな課題が出たのだろう。
写真の中のわたしは、こけしみたいなおかっぱ頭で、色白で、少しも愛嬌をにじませない顔で、作ったお面を頭の上に乗せてこちらを見ていた。4人並んだわたし以外の笑顔の3つのお面は、うさぎさん、ねこちゃん、いぬ。端っこのわたしが持っているのは、灰色の目がぎょろぎょろした顎の細いネズミさん。果たしてわたしは、そのお面をどんな気持ちで作ったのだろう。
周囲に人だかりができて、もてはやされるような人気者を、わたしは羨ましく思う。ねずみのお面を作るわたしの周りには、特別に足を止める人はおらず、横目にチラリと、少し奇異なものを見るような顔をされる。そんな顔をされることを想定していたわけではないが、作っている最中に初めて気付く。そして、その人に対してわたしは嫌悪感を持つ。決まってその人は、次に目に入ったピンクのうさぎさんのお面を作る女の子に、大袈裟に感激の声を上げる。ポジティブなリアクションに人は群がり、共感を強めに演出する。わたしは独り黙々と作業を続ける。
共感をしてもらえないことは寂しいことだ。自分のアイディアに従って制作する中に間違いはないのに、どんどん孤独を感じていく。誰かに認めてもらうために作っているわけではないのに、認められることを羨ましく思う。集団生活の中にいるだけで、自己否定感が生まれていく。人の目に気付くことなく、本当の意味で我が道を行けたらどんなにいいことだろう。
ねずみのお面を作っていたほんのり残っている記憶。高い声の笑い声が重なって、頭の中でぎゃんと反響する中、ねずみの特徴的な顔の細さを出すために、慎重に紙粘土を削いでいく。写実的に。
幽体離脱するように、過去のわたしを頭上から見るわたしは、今、その子どもに思う。
「きちんとねずみの特徴を掴んでいるね。」
ピンクのうさぎさんなんて、見たことないもの。
ちなみに、ミッキーマウスのことは、あんまり好きじゃない。
必殺、自分の悩みがちっぽけなものに感じさせられるー!の技

演劇の世界は、日常生活と大きく違っている。
映画やドラマやアニメの中では、主人公が悩みを抱えているときに、その悩みを解決するために一緒に闘ってくれる人がいる。その手法は、面と向かって一緒に考えるとか、あざ笑うことで奮起させるとかいろいろだけど、とにかく一つのストーリーが終わるときには、悩みの形が変化して終わるものだ。
だから安心して観ていられる。
日常生活では、
誰かがわたしに悩みを打ち明けたときに、「わたしなんてさ・・・」と、自分の悩みのほうがよっぽど大きな問題だから、気にするなよ。という攻撃をしてしまうことがある。相手に寄り添うことをサボって、一撃で自分の話を被せるわたしは、なんて自己中心的なのだろうか。
反対に、自分が悩んでいるとき、悩みがとてもとても大きすぎて途方もないのに、「いま海外には難民の人がね・・・」なんて言われたときには、たまらない。
自分の悩みが難民の悩みの足元にも及ばないということを、自覚しなければならないのだろうか。

2001年9月1日、2001年9月11日、2004年10月23日、2011年3月11日、2020年・・・
大きな事件や事故や災害の惨状の中、必死に生きる人がいることはたしかだ。
それらをテレビ画面越しに目の当たりにしたときに、
自分が抱えている大きな悩みと天秤にかけて、飲み込んで、握りつぶして、
心の押し入れの奥のほうに何重にも封をしてしまい込んで。
自分の悩みがちっぽけなものだと感じなきゃいけないような圧迫感に
耐えられなくなる。
それに抗おうとする自分の惨めさに、
涙が止まらなくなる。
しまった黒いものは、ぼやぼやしたままどんどん成長していって、
複雑に線が絡まった時限爆弾になる。
ちくたくと、その時を待って大きく大きく。

悟っちゃいけない。悟れてなんかいない。
ちょっと考えただけで忘れられるようなことならば、
はじめから悩んだりしない。

悩んでいることを、声に出して、ただ聞いてもらえると少しいい。
1秒でもいいから脳内で同じ傷みを想像してくれる人がいたら、もっといい。

だからわたしは、共感できる人でいたい。
ドラマのヒーローのようにいたい。
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